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臨床医にとっての研究とは?

私は長年研究生活を続けた後、医師を辞めて基礎研究者として飯を食っていくと決めたことがあります。数年間に渡り、30ヶ所以上の研究施設の教授や部長ポストに応募しましたが、結果はすべて落選でした。最後に某大学医学部の教授選の最終選考まで残りましたが、落選したので、プロの研究者の道を諦める決心をしました。後になって、そこの教授になった人が同じ大学内から選ばれたと知り、あれは結局出来レースだったのだなと思いました。日本の場合は、公募としながらも、実態は形式だけの教授選というのが多いように思います。私は経験年数や世渡り上手で評価される臨床が嫌になって、純粋な基礎研究の分野に進む決心をしましたが、基礎研究の世界も政治が大事なのだなと残念に思いました。その歳になるまで気が付かなった自分も情けなくなりましたが、臨床医が研究する意味を深く考えさせてくれた良い機会だったと思っています。

アメリカでは講師や准教授でも自分のラボを持てますが、その後の競争は熾烈を極めます。ただし、若い研究者でも独創的なアイデアを持っていれば、評価されます。日本では自分のやりたい研究をするには教授やラボの部長になるしかありません。ただし、一旦教授や部長になればその後の研究生活は安泰です。研究費の配分もアメリカは若い人にもかなりチャンスがありますが、日本は有名教授にお金が集まる傾向が強く、教授以外の研究者への配分は少ないです。日本で教授になるためには、コネと論文数が必要なのは常識です。ですから、研究者はがんばって論文を書いて論文数を増やそうとします。研究者の中には、真理の探求や研究の意義よりも、論文の数を増やすことに一生懸命になる人もいます。不正をしてでも論文を書く人まで出てくる。一般に、NatureやScienceやCellなど有名雑誌に掲載されることが研究者にとっての最高の名誉であり、目標であると信じられています。ただし、それらの論文も現実を全く反映しておらず、「机上の空論」や「辻褄合わせ」のようなものも結構あります。そもそも論文とは実験の結果をまとめた記録です。現代のように論文そのものに価値を置かなくてもいいのではないか?論文の雑誌名や論文数で研究者の能力を評価するのもおかしいのではないか?一見何の役に立つかわからないような研究こそ、真理に迫ることが多い。そういう研究は数十年後に評価されるもの。自分が本当に面白いと思った発見をした時だけ、論文として残せばいい。論文とは本来極めて個人的な創作活動なのだと思います。

私はプロの研究者の道は諦めましたが、研究は臨床をやりながらもできるし、臨床は何よりも病気という現実を間近で見れる。研究とは本来、他の誰かの興味や主張に迎合するのではなく、自分が本当に興味のある疑問を自分で解明することが醍醐味だと思います。一般の臨床医は教授になるのが目的ではないから、興味本位の研究ができる。論文数も無理に増やす必要がない。純粋な気持ちで、若い時に疑問を持ったことの答え探しができる。私は今、本当に興味のあるテーマに取り組めるという喜びを感じています。研究のプロではない人の方が大きな発見をしやすいのかもしれないと密かに思っています。

院長

*写真はボストンで研究していた頃のラボの風景。

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